ポルカドットスティングレイがもたらしたもの
ポルカドットスティングレイというバンドと、私の敬愛する中島らもという作家はあまりにもマッチしないので、ひとつのエッセイに共存させてもいいものか小一時間悩んだことを、ここ冒頭に記しておく。
らもの著書“頭の中がカユいんだ”にある、この一段落がすきだ。
書ける。本が書ける。誰にも邪魔されずに、ただ、何を書くかということは何もまだ決めていない。でも僕は知っている、こういう時は、まず書き始めることだ。体裁はあとから整えればいい。題名は一番最後。これは音楽のやり方だ。まず、絃を弾いてみることだ。そうすれば、リズムも、和音も、それにひっついて出てくる。ただし、良い、まずい、は別の話だ。
音楽のやり方でことばを紡げるというのは、それだけでもう天才だと思う。良い、まずいは別として。まだ、すきとビジネスが無関係だった頃、私もこんな書き方をしていた。
ことばという意味を伴う重たいものを、音のように扱えること。たぶんそういうのをセンスといい、それを生涯持ちつづけられるひとのことを天才と呼ぶんだろう。
平凡な私は、絃を弾けない代わりに音楽を聴くことにしている。適当にそのときの気分に合わせた曲調のものを流し聴きしながら、耳に引っかかったフレーズを膨らませたり、文法ぐちゃぐちゃのまま思いついたことばを次々リズムに置いていかれないようにタイプしたりして、下書きをつくってゆく。
私はうじうじ考えてしまうタチなので、文章を書くときでなくともなるべく常に音に触れていたいと思っている。それも、流動的で多少強引な音の羅列に。考える隙を与えないでほしいし、リズムを強制してほしいのだ。
締め切りに追われている明け方や、すっかり忘れていた約束を思い出したときなど。焦って、でもどうしようもないときはたいてい、ポルカドットスティングレイの“ICHIDAIJI”を流す。
歌詞に励まされるとか、ポルカやこの曲を特別すきだとか、何か理由があるわけじゃない。なんとなくタイトルの字面が気に入って、聴くようになっただけだ。
あんまり容赦しないで 私だって不景気 公式なんて要らない
好きな回答がほしい よそ行きに毎日 まみれて不安でしょう
ポルカの楽曲は他にもいくつか知っているけれど、このエッセイを書くまで歌詞を調べたことがなかった。リピートする中でなんとなく覚えたまま歌っていた。もしかすると歌詞を聞き違えている箇所もあるかもしれないが、それでもいいやと思う。私にとってポルカはそういうバンドだ。
いつ何時も正しさが正義の私を、リズムをもっていなす彼女たち。その圧倒的センスが羨ましい。魅せられてしまっているという敗北感がなぜだか気持ちいい。ポルカの楽曲を頼りたくなるわけは、そこにあるのかもしれない。
ポルカドットスティングレイが私にもたらしたのは、そういう、勝敗を付けずに勝ちから逃れるための術である。
♪ポルカドットスティングレイ/ICHIDAIJI