椎名林檎と、初めてを重ねて

めちゃくちゃドキドキしている。だれからも見られていないことは承知の上で、一挙手一投足に無駄に緊張が走ってしまう。なぜかって?私は今、ひとりで渋谷のバーにいるのだ。

兎に角「あの子慣れていないのね」と思われたくなくて必死。このエッセイだって手持ち無沙汰を隠すために書いている。そうそう。最近気づいたのだが、パソコンは便利だ。とりあえずタイプしてさえいれば「〜ながら仕事です」アピができるのだもの。(しかも“〜”には割と何でも入れられる)

 

店内は薄暗くて程よくガヤガヤしていて、いい感じ。渋谷に来たことがあるなら、たいていのひとは知っているであろうビルの、9Fにあるバー。高いスツールに腰掛け脚を組んで、気分はすっかりいい女。(でも飲んでいるのはファジーネーブル)(なんか焦って、パッと目に入った名前を言っちゃったの)

 

ほんとうは用事のあった表参道でお店を見つけるつもりだった。高校生時代から椎名林檎に憧れている私。今日こそはひとつ、彼女に近づけそうなこと(しっぽりとひとりバーで飲む!)をしてみようと、用事を終える前から決めていた。

でも店を探している途中度々ナンパに遭うので、声をかけられないようにとさっさか歩いていたら、いつの間にか渋谷まで来ていた。109が見えたときにはもう気持ちが冷めてしまっていたし、渋谷の街はあまりすきじゃない。何より私はひとり飲みをしたことが一度もなく、実は異常に緊張していたので、今日は先に挙げた2つを口実に帰ろうと思った。が同時に、ナンパに予定を壊されたとも言えるな、それは癪だな、などとも思い始め、迷った挙句“行ったことのある店で”飲むことにしたのだった。

 

 

メニューを置きっぱなしにしてもらったので、新しいドリンクかフードを頼むべきか迷う。ドリンクをもう1杯飲もうか。きのことベーコンのアヒージョも美味しそうなんだよな。でも、アヒージョを食べるときって何を飲むべきなの?少なくともファジーネーブルではないだろう。

こっそりiPhoneで“アヒージョ 合うお酒”と検索する。真っ先に“イタリアンワインが絶品!”というサイトの文言が目に入って絶望した。私はワインを飲んだことがないのだ。

ダメだ。こんなに空腹なのに、普段大衆居酒屋でしか飲んでいないせいで、洒落た店で何を頼めばいいのかわからない。ああ、食べたいものを注文することが、こんなに難しいなんて!

友人と行くトリキが無性に恋しくなって、ほんのちょっと涙が出た。

 

軽く店内を見回す。ひとつひとつはそんなに明るくないライト、それと同じくらいの数の客。誰も彼も、ほぐれた表情で歓談したり、ひとりでくつろいだりしている。私みたいに強張った顔でキーを叩いているひとはいないように見える。すごいなぁと思う。

お兄さんに「アルコールがラストオーダーですが」と言われ「そうですか」とメニューを開いたものの、やめた。アヒージョもプロシュートも美味しそうだと思ったけど、やめた。背伸びは1日1回でいい。今日のところは帰りにLチキでも買えばいい。

 

 

“初めて”が恥ずかしく、あまり喜ばしいものでなくなったのは、大人に近づいていることの証だと思う。

初めて歩いたとか、ママって言ったとか。そういう、ピカピカに輝いて眩しいような“初めて”は、もう消化しきってしまった。大人じゃないけど、もう子どもではない私。これからは、いくつ世に溢れている様々な物事を経験していくかだけの勝負。文字通り、経験値を増やしていくゲーム。

 

私が今まで出会ってきた素敵な大人は、みんなおしなべて“知性”と“品性”があった。

大人の初めては、苦くて恥ずかしくてくさくて、それでいてなんとしても隠したいものだけど、私が憧れる彼女らの“魅力”とはきっと、そういう経験の積み重ねのことを言うのではないかと思う。

そしてその苦さや恥ずかしさを素直に記憶していられるひとこそが、いいものを創るのだ。

 

椎名林檎/丸の内サディスティック

www.kronekodow.com

officialに丸の内サディスティックの音源がなかったので……)

reGretGirlに脅かされながら。それだけがまぎれもない愛なのだよ

ぜんぶreGretGirlのせいだ。彼らの“イズミフチュウ”という曲のせいで、恋人の家に荷物を増やせなくなった。

 

私は恋愛ソングより失恋ソングを聴くことが多い。その一つずつに重ねられるほど過去にたくさんの恋を持っているわけではないのに。

かわいくて瑞々しいよりも、苦く切ないほうが耳に心地いい。特別好んでいるのではなく、気づいたら再生履歴がそれでいっぱいになっている感じ。たぶんそういう性なのだろう。

 

今お付き合いしている彼とは中距離恋愛だ。彼がひとり暮らしで私は実家暮らしなので、その半端な距離は私が埋めている。会うときはたいてい泊りがけ。

 

2人乗りのバイクでスーパーまで買い出しに行ったり、深夜手を繋いでコンビニへ行ったり。ちょっとした、でも帰る場所が同じでないとできないデートがうれしい。

キッチンに立つ私に注がれる視線、狭い浴槽にギュウギュウに浸かりお湯があふれてしまう瞬間、ひとつのふとんの中でわざと背中を向けて言ってもらう「こっち向いて」。みんな、あったかくてすき。ひとりでできることをあえてふたりでやるって、どうしてこんなにたのしいのだろう。

しあわせに定義はないが、こういう時間を他にどんなことばで表すのか私は知らないから、しあわせと呼んでいる。口に出すたび高まっていく気がするから、何度でもくりかえす。

でも、満たされるほど失われる日を想像してしまうのもまた、本音だ。

 

中途半端な遠い距離を埋めてくれる830円で

何度も会いにきてくれたよな

ねぇ どうして

 

私の最寄から彼の駅までは電車で1本。これまではアクセスの良さを喜んでいたが、それは裏を返せば、1本で行けるのにも関わらず時間のかかる場所ということだ。私は春から東京の会社で働くから、当然、今までのようには会えなくなってしまうだろう。

どんどん遠のいていく非日常に、私は手を伸ばせるだろうか。彼は伸ばしてくれるだろうか。どちらかが手繰り寄せるのではダメで、両側から掴まなければそれは約束にならないのだが、私たちはこれから先ずっと、そういうことに気づきつづけられるだろうか。

 

いつだったか、彼が部屋を見渡して言った。「俺、もし咲月ちゃんと別れちゃったら、この部屋住めないな」

私は「絶対別れないよ」とか「ずっと一緒だよ」なんて言えるような女じゃないから、もう、彼の家に荷物を増やせない。

 

連れてきてくれる日もあったのに

今日は連れて行ってしまうの

二度と会うことがないように

荷物を持つ後ろ姿が遠く滲んでゆく

二度ともうここにはこない

それを選んだはずなのに

君は最後に涙を流していたんだ

 

観光名所もショッピングモールもない、土地が広いばかりの片田舎。改札で手を振るとき、毎回、彼と別れたらもうここへは来ないだろうなと思う。

二度ともうここにはこないと決める日を、あるいはこないでくれと言われてしまう日を想像して切なくなる。彼が何気なく言う「じゃあね」にすら終を感じてしまって、わざわざ「またね」と強調する。

ふたりでいるときの温度を知ってしまってから、余計に、ひとりで眠る夜がさみしくなった。どうしてひとは、恋なんてするのだろう。

 

ひとが永遠じゃないのだから、そのあいだに生まれる恋や愛だってもちろん永遠じゃない。そういうあやういものを有難がったり傷ついたりして、みんなバカみたいだ。

そんなバカを慰めたり励ましたりするために失恋ソングというものがあるのなら、私はその一つひとつ、殴っていきたい。

いいか?私。 reGretGirlに脅かされながらも、彼と私のしみついた2LDK をちゃんと抱きしめろ。今抱きしめているそれだけが、まぎれもない私たちの愛なのだよ。

 

 

 

♪ reGretGirl/イズミフチュウ

www.youtube.com

 

noteに、もとになったエッセイがあります。こちらもぜひ。

note.com

リーガルリリーは暴力性を持って内在する

無精な私に、随時あたらしく音楽を教えてくれるガールフレンドがいる。

彼女は「夏の匂いがするね」なんて、私が照れて言えないからエッセイに書いているようなことを、あっけらかんと言うひとだ。あまりに平然と言うので、こちらの方が、照れていてはもったいないかと思い直させられてしまう。そういうエネルギー(?)も持ったひとだ。

 

彼女が住んでいるワンルームに、私はよく遊びに行く。いつ遊びに行っても音楽が流れている。もしかすると彼女の血管には音も一緒に流れているのではないか、音楽を止めてしまったら彼女も死んでしまうのではないか。なんて思ったりする。

そんなバカなことはないだろうから決して口には出さないが、口にしても彼女は別に笑わないと思う。ふうんとか言いながら、プシューとビールを開けるんだろうな。

リーガルリリーの楽曲を初めて聴いたのも、彼女の部屋だった。リッケンバッカーという曲だった。

 

詞が最高にすきなので、全文引用する。

 

 

リッケンバッカー 作詞・作曲 たかはしほのか

 

きみはおんがくを中途半端にやめた。

きみはおんがくを中途半端に食べ残す。

 

リッケンバッカーが歌う

リッケンバッカーが響く

リッケンバッカーも泣く

おんがくも人をころす

 

明日に続く道が今日で終わるなら

このまま夜は起きない。きみを起こす人も消えて

地球の骨の形が少しだけ変わるのさ。

 

きみはまいにちを中途半端にやめた。

きみはまいにちを中途半端に食べ残す。

 

明日に続く道が今日で終わるなら

このまま夜は起きない。きみを起こす人も消えて

重ねたエゴの形が燃え尽きて星になるのさ。

 

リッケンバッカーが歌う

リッケンバッカーが響く

リッケンバッカーも泣く

おんがくよ、人を生かせ

 

ニセモノのロックンロールさ。

ぼくだけのロックンロールさ。

 

 

 

 

飾りのないことばは強い。ほとんど音に近いからこそ、ひとびとの内であらゆる意味を持ち、生きる。私も侵入してくる彼女たちのおんがくに抵抗できなかった。

 

自分が今かじりついているものを思い浮かべる。中途半端に食べ残したなにかに殺されそうなひとはどれだけいるだろうと想像する。

たかはしほのかの詞に殺られた人間は私だけじゃないと思った。というより、私以外にもなるべくたくさんいてほしかった。ユーチューブのコメント欄にわざわざコメントを残すのは、きっとそういう人間たちなんだろう。俯瞰して胸を撫でおろす、快感と不快感。

 

 

突き抜けてかっこいい音楽に出会ってしまった瞬間、呼吸ができなくなる。

無垢な音につけられた数多の細かい切り傷に酸素がしみ、自分は細胞が集合して生まれたのだということを思い出す。全身は無邪気にさんざめき、トクトクと、その音楽に侵されていく。

 

私もあのとき、彼女たちのおんがくを織りこまれたのだと思う。

私の心身なのに意思が及ばず、かといって全くわけがわからないわけではなく、たしかにあの部屋で、私はリーガルリリーに侵されていった。おんがくは、その暴力性を持って今も私に内在している。

 

 

 

「これ、なんてバンド?」

「リーガルリリー」

「いいね」

 

でしょ?と言ったガールフレンドの内にも、同じおんがくはあるのだろうか。尋ねようとしたとき、曲がスキップされた。

 

♪ リーガルリリー/リッケンバッカー

www.youtube.com

 

森七菜ちゃんに殴られて考察

バイトを終えた夜、行き慣れた帰路をチャリでなぞってゆく。片耳イヤフォンから流れてくる、森七菜ちゃんが歌う“スマイル”が突き刺さる。
99年生まれの私は知らなかったが、スマイルはもともとホフディランが1996年にリリースした曲だそうだ。しかし、私がボコボコになったのは、少女の歌声に乗って届いたからに違いないということを書く。

 

いつでもスマイルしようね
とんでもないことが起きてもさぁ
可愛くスマイルしててね
なんでも無い顔して出かけりゃいいのさ


不幸ではないが、一つひとつのアンラッキーが重い。そういう人生。
いじめを受けたり、父を亡くしたり、大学受験は失敗したし、19のとき付き合っていたモラハラ彼氏には洗脳されかけた。
それでも私は可愛くスマイル。大丈夫、なんでも無い顔して出かければいいのだ。

 

いつでもスマイルしててね
深刻ぶった女はキレイじゃないから
すぐスマイルするべきだ
子供じゃないならね


少女は“女性”を意識するようになる。

他に示されてか、自分の内になにか芽生えたのかは定かではないが、自分が少女から女性になるということを自覚し始める瞬間って、私にもあったなぁと、21の私はちょっぴり懐かしく思った。

 

いつでもスマイルしててね
完璧なんかでいられる訳がないだろう
すぐスマイルするべきだ
子供じゃないならね


少女は女性に呑まれそうになっている。
無責任で自由で情けなくて、それでもそんなすべてがゆるされていた、少女が一気に乖離していく感覚。女性になるということは、それらの権利を失うこととイコールなのだろうか。身体じゅうの血管に涙が流れ、かわいく死ぬことだけを考えていた私は、たしかに私だったのに。


制服を脱いだら、年齢を重ねたら失われてしまうなんて、そういうすべてを制服や年齢が持っていたことになりやしないか。あの思考や感情は、笑えなかったり無理やり笑ったりした時間は、たしかに私そのものだったのに。

 

もうすぐだね あと少しだね
その時の笑顔がすべてをチャラにするさ
もうすぐだね 長かったね
早くスマイルの彼女をみせたい


キミが見せたい彼女ってだれなんだ。彼女ってだれだ、キミはどこへ行ったんだ。

 

かわいくスマイルしててね
人間なんかそれほどキレイじゃないから


可愛いがかわいいになる、それはすなわち自愛が他愛にすり替わったことを示している。自分のために笑っていた少女は、だれかのために笑う女性になった。
人間なんかそれほどキレイじゃない、そうかもしれない。21歳の私はもう子どもじゃない、そうだろう。
しかし、私が私で・キミがキミで在ることは、いくつになろうが変わらない。というより変わってはいけないのだ。

 

少女よ、キミは少女や女性である前に、キミである。

 

とんでもないことが起きても、自分のために笑い飛ばせよ。深刻ぶった女はキレイじゃないかもしれないが、こぼれてしまった涙は綺麗だ。

完璧でいられるわけがない、人間なんかそれほどキレイじゃない。たしかにみんなそうだよ。


でも、少女が自分から乖離していこうが、それにあこがれていればいいじゃないか。すべての女性はかつて少女だった。だから、心に包含したまま生きていくことだってできる。

少女よ。キミがキミのために笑い飛ばした、そのときの気持ちと共に女性になることだってできるんだよ。なんて。

 

 


いくつもの白光が私を追い越してゆく。すこし先の空に背の高いコンビニの看板が見える。無意味に点滅する信号と暗い月。私はそれらすべてを、平然と無視しながら走っている。

 

 

♪ 森七菜/スマイル

www.youtube.com

 

ポルカドットスティングレイがもたらしたもの

ポルカドットスティングレイというバンドと、私の敬愛する中島らもという作家はあまりにもマッチしないので、ひとつのエッセイに共存させてもいいものか小一時間悩んだことを、ここ冒頭に記しておく。

 

 

らもの著書“頭の中がカユいんだ”にある、この一段落がすきだ。

 

書ける。本が書ける。誰にも邪魔されずに、ただ、何を書くかということは何もまだ決めていない。でも僕は知っている、こういう時は、まず書き始めることだ。体裁はあとから整えればいい。題名は一番最後。これは音楽のやり方だ。まず、絃を弾いてみることだ。そうすれば、リズムも、和音も、それにひっついて出てくる。ただし、良い、まずい、は別の話だ。

 

音楽のやり方でことばを紡げるというのは、それだけでもう天才だと思う。良い、まずいは別として。まだ、すきとビジネスが無関係だった頃、私もこんな書き方をしていた。

ことばという意味を伴う重たいものを、音のように扱えること。たぶんそういうのをセンスといい、それを生涯持ちつづけられるひとのことを天才と呼ぶんだろう。

平凡な私は、絃を弾けない代わりに音楽を聴くことにしている。適当にそのときの気分に合わせた曲調のものを流し聴きしながら、耳に引っかかったフレーズを膨らませたり、文法ぐちゃぐちゃのまま思いついたことばを次々リズムに置いていかれないようにタイプしたりして、下書きをつくってゆく。

 

私はうじうじ考えてしまうタチなので、文章を書くときでなくともなるべく常に音に触れていたいと思っている。それも、流動的で多少強引な音の羅列に。考える隙を与えないでほしいし、リズムを強制してほしいのだ。

 

 

締め切りに追われている明け方や、すっかり忘れていた約束を思い出したときなど。焦って、でもどうしようもないときはたいてい、ポルカドットスティングレイの“ICHIDAIJI”を流す。

歌詞に励まされるとか、ポルカやこの曲を特別すきだとか、何か理由があるわけじゃない。なんとなくタイトルの字面が気に入って、聴くようになっただけだ。

 

あんまり容赦しないで 私だって不景気 公式なんて要らない

好きな回答がほしい よそ行きに毎日 まみれて不安でしょう

 

ポルカの楽曲は他にもいくつか知っているけれど、このエッセイを書くまで歌詞を調べたことがなかった。リピートする中でなんとなく覚えたまま歌っていた。もしかすると歌詞を聞き違えている箇所もあるかもしれないが、それでもいいやと思う。私にとってポルカはそういうバンドだ。

いつ何時も正しさが正義の私を、リズムをもっていなす彼女たち。その圧倒的センスが羨ましい。魅せられてしまっているという敗北感がなぜだか気持ちいい。ポルカの楽曲を頼りたくなるわけは、そこにあるのかもしれない。

ポルカドットスティングレイが私にもたらしたのは、そういう、勝敗を付けずに勝ちから逃れるための術である。

 

ポルカドットスティングレイ/ICHIDAIJI

www.youtube.com

 

“トーキョーナイトダイブ”という曲の持つ罪について

横山優也の歌声は、KOTORIが奏でるロックサウンドは、いったい何人の若者を掬ったのだろう。

KOTORIというバンドを、私はたしか、この曲で知った。たくさんの情けない夜を余すことなくemoという芸術に変えてしまう、トーキョーナイトダイブという曲の持つ罪について書く。

 

 

その日私はPCを使って執筆をしていて、音楽もYouTubeから流していた。

私は気に入った曲を飽きるまでリピートしつづける癖があるので、新しい曲を聴く機会はシャッフル再生か、ひとに聴かせてもらったときしかない。しかもイントロ3秒で“合わない”と思うとすぐに聴く気をなくすものだから、ほんとうに新しい音楽と出会うことがない。

あのとき、イントロが気に入ったのか単に操作が億劫だったのかはわからないが、私は久しぶりに新しいバンドに出会った。

 

眠れない夜に飛び込む 星みたいな光の街

飲みかけのコーヒーと 止まらない空調の音

眠れない夜に飛び込む 寂しさを抱きしめて

こんな夜に君に会えたらいいな

 

なんとなしにWordを閉じる。MVのちょっとレトロな雰囲気は、いかにも流行の「エモい」というフレーズが似合いそうで、いけ好かないなと思った。はいはい最近はこういうのがウケるんだよね~と斜に構える。その一方でスキップする気にもならなかった。

 

トーキョーナイトダイブ ここに君はいないのに

トーキョーナイトダイブ また夜が明けてしまった

 

“君”って、ずるいフレーズだと思う。そのひとことで聴き手に強烈な自覚を与えるからだ。彼とか彼女も似たようなものだが、君は特に罪深い。だれもが、だれでも当てはめられてしまうのだもの。

想いの届かなかったひと、もう二度と会えないひと、だれかのものになってしまったひと……私たちの内側にいつまでものこって消えない“だれか”が、横山優也の歌う“君”に重なる。瞬間、この曲は聴き手のものになる。

 

眠れない夜に飛び込む 思い出から逃げるように

こんな夜を何度も超えてきた

 

東京のいいところは電車で泣いていても声をかけられないところだと、なにかで読んだ。私も都内に勤め始めてから何度か電車で泣いたことがある。当然、居合わせたすべてのひとは私に無関心だった。

東京は多くのひとが言う通り、あたたかい街ではない。親切にしたりしてもらったりはもちろんあるけれど、街としてはとてもドライだ。

でもそれは、みんながそれぞれかなしみを抱えているゆえだと、今ならわかる。

ヘッドフォンをしていたお兄さんも、携帯を持ったまま寝ていたお姉さんも、酔っぱらいの大学生たちも、各々の思いを抱えて電車に乗っている。東京は特に、簡単ではない気持ちの集まっている土地だと、3年通ってやっとわかった。

だから東京は、安易に私にやさしくしないのである。

 

あの高いビルの向こう側には 海が見えるらしい

あの黒い空の向こう側には

トーキョーナイトダイブ ここに君はいないのに

トーキョーナイトダイブ また夜が明けてしまった

 

また明けてしまった夜は、きっと若者の数だけ存在する。それを証明するように、YouTubeのコメント欄にもエピソードがあふれていた。

君がいないのに明けてしまった、いなくても乗り越えられてしまった、やっぱり君がいてほしかった、君がいないとまた思い知らされた、あの夜は、君を忘れてしまいたい、忘れられない。

トーキョーナイトダイブはたくさんの情けない夜をemoという芸術に変えてしまえるし、そうして掬われた若者たちはみんなKOTORIを神様と信じてしまう。ずるい曲だ。

 

 

うつくしく罪深いトーキョーナイトダイブという曲を、私は絶対にゆるさないし、共感しない。そうしているうちはまだ、私は私だけでいられるし、あのひとが無数の君と重なることはないと思うから。

 

♪ KOTORI/トーキョーナイトダイブ

www.youtube.com

プロポーズをさせてね

赤の他人が歌う、これまた赤の他人の話。

どうしてひとは「私のための歌だ」と信じるのだろう。音楽には、聴き手に強烈な自覚をもたらし、かつそれを信仰に変えてしまう力がある。

 

口下手な私は長いことエッセイを書いているが、それも書ける心理状態でないとき、たくさんの音楽に助けられてきた。

父を亡くしたときはMISIAに没頭し、停滞する日々にはKOTORIがいてくれ、ユーミンに癒される時間があり、WOMCADOLEに魅せられ、泣くためにUruを聴いた。最近はサンボマスターに励まされている。

ああこのことばが欲しかったのだとか、私はこう思っていたのだとか。ひとりでは辿りつけなかった深層に、音楽はいつも連れて行ってくれた。

 

 

音楽もエッセイも余暇だろう。なくても死なないし、戦争になったらきっと真っ先に燃やされてしまうものだ。しかしだからこそ、いつまでもその存在をゆるされていてほしい。

音楽もエッセイも、私にはとてもいとおしいから、どうかとけあって生活になってください。そういうプロポーズを、この場所で書いていこうと思います。

 

初回bgmは私のだいすきな曲で。

 

♪ 荒井由実松任谷由実)/やさしさに包まれたなら

www.youtube.com

続きを読む